名言集
「虚偽がまかり通る時代には、真実を語ることは革命的行為である」
ジョージ・オーウェル
矢野絢也氏(元公明党委員長)が創価学会を提訴
矢野絢也元公明委員長 創価学会提訴についてスピーチ |
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矢野氏のプロフィール 1932年4月27日生まれ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 創価学会提訴のいきさつ 1993年から1994年にかけて文芸春秋に手記を連載。「学会と公明党は政教一致と言われても、仕方がない部分があった」との記述 創価学会に波紋を起こす 創価学会から非難され矢野氏は釈明すると共に、単行本の出版も、その記述部分を訂正していた。 しかし、平成2005年4月20日 既に解決済みだと思っていた前記の記述部分に対して、謝罪文を要求された。12年間の空白期間を経て突如・・・ 5月14日 再び、謝罪の他、政治評論家を止めるよう要求された。 5月30日 3名の元公明党議員が、矢野氏宅を訪れ、手帳など様々な記録を持ち去った
矢野氏は2008年5月12日、50年以上にわたり所属してきた創価学会、および同会の幹部七名を、東京地方裁判所に民事提訴した。 政治評論家活動の中止の強要、『聖教新聞』など学会の機関紙での誹誘中傷、さらには威迫を伴った巨額の寄付金の強要等の一連の人権侵害行為について、5千5百万円の損害賠償を求めて提訴に踏み切った。 また、公明党の議員時代から30数年にわたって使用していた100冊近い手帳、資料を、創価学会に所属する元公明党議員3人が私の家から私の意に反して持ち去った事件についても、現在、東京高等裁判所で返還を求めて争っている。 今回の提訴に先立ち、本年5月1日に私と家内、息子夫妻とその娘三人の家族七人は揃って創価学会を退会した
矢野氏に人権侵害など様々な違法行為を 三年間続けてきた。また元公明党委員長である竹入義勝氏にも十年近く前から「聖教新聞」などにおいて、聞くに堪えない悪口雑言による個人攻撃をしている。さらに脱会した元学会員への嫌がらせなども続いているという。 同じような仕打ちを受けている人々が多いことにも鑑み、私怨よりもむしろ公憤を強く感じるようになった。日本の政治に多大な影響力を持つ創価学会の、このような人権蹂躙、反社会的な行為を見逃すことは、私の責任放棄ではなかろうかと思い煩悶もあったが 提訴するにいたった 中略――― 1957年の参議院補欠選挙の際には大学を卒業して大林組に入社していたが、会社を何日も休んで、しかも会社の前で演説などをしたため、クビを言い渡された。むしろ「法難だ」ぐらいに、意気がって池田参謀室長に報告に行くと、「会社をクビになるような人間は学会もクビだ。社会と両立しないでどうする」と厳しく怒られ、会社に頭を下げてクビを取り消してもらったりもした。この頃から池田先生には特別に目をかけられてきた 書記長を約20年務めた後、1986年12月から1989年5月までは、委員長に就いた。その後は、公明党常任顧問となり、1993年に政界を引退した。思えば「無名の一青年」をここまで引き立てて下さったのは池田名誉会長である。このご恩は深い。 創価学会と公明党にとって最大の危機となった1970年の言論出版妨害事件では、国会で政教一致問題が追及され、池田先生の証人喚問要請もされたが、心血をそそいで防戦に尽力した。 他にも国税庁による学会への二度の税務調査等、学会の意を受け、様々な問題を処理してきた。 その間、あからさまに口外できないようなこともたくさん処理してきた。創価学会、池田先生を守らればという使命感をもって活動してきたのだ。 実は裏では、10年以上も前からトップの指示を受け、学会、公明党が連携して、矢野をターゲットにした攻撃計画が密かに用意されていたという話も最近聞いた。迂闊かもしれないが、ともあれ三年前に起こった私への難詰は「寝耳に水」だった。 その手記は私が政界を引退した直後の1993年から1994年にかけて、『文藝春秋』誌上に七回にわたり、公明党議員時代の回想録を連載したものだった。連載初回のタイトルは「政界仕掛人 極秘メモ全公開」というものだった。 1984年の二階堂擁立劇、創政会発足から始まる連載は、議員時代に手帳に克明に記録していたメモを元に、竹下・金丸対田中・二階堂の権力闘争や衆参ダブル選挙による自民の大勝利、中曽根政権の終焉から「経世会」を母体にした竹下政権の誕生など、昭和の終わりまでの政界の様子を詳細に記した。 この連載は文藝春秋読者賞をいただいた。連載終了後は『二重権力・闇の流れ――平成動乱を読む、政界仕掛人・矢野絢也回想録』として文藝春秋より単行本化された。 この単行本の前書きに、同連載の執筆意図をこう記している。 なお、私は連載の初回に、以下のような文章を書いていた。〈やはり私たちはとかく政教一致というご批判をいただいているが、確かに状況をみてみると、そう言われても致し方ない面はある〉 この部分に対しては、創価学会や公明党の先輩から「まずいんじゃないか」という趣旨の指摘をいただいた。政教一致という問題は、創価学会、公明党にとっては非常にデリケートな案件なのだ。 その後の十二年間、私は政治評論家として活動していたが、学会との関係は表面的には平穏に推移していた。学会幹部の人々も、私が評論活動をしていることについてはある種黙認していた。「公平な立場で評論をしていればいい。信頼関係もあるのでいざという時は学会、公明党について国民に分かる形で解説してくれるだろう」と期待してくれる幹部もたくさんいた。 青年部による "査問会" するとこれを皮切りに、私に対する学会からの激しい攻撃が始まった。まず、4月28日付の『聖教新聞』に大きな活字でこう報じられた。〈公明党元委員長の矢野氏が謝罪「文藝春秋」(93、94年)掲載の手記をめぐって"私の間違いでした""当時は心理的におかしかった〉 記事中では、私の記述によって、学会側がいかに大きな被害を受けたかが強調されていた。その頃、私は業務で妻とともに海外への旅行を計画していたが、4月25日に創価学会の秋谷栄之助会長から電話が入り、「この連休中にカサブランカヘ行くということだが、都議選前だからやめて欲しい」と言われた。 私はどうして旅行の情報を学会側が知っていたのか不思議に思いつつ、「海外知人とのアポイントがあるから」と、秋谷会長の申し出を断ると、「それなら旅行の日程表を提出するように」と言われ、日程表を学会側に提出した。 4月28日から予定通り旅行に出かけたが、学会の長谷川重夫副会長から30日に、当時オーストラリアのブリスベーンに住んでいた長男のところに電話が入り、その後も数回、執拗に私から連絡するように求めてきた。出張先から長谷川副会長に連絡を入れたところ、矢野への批判が激しくなっているので、早期に帰国するよう求められた。また、学会青年部が怒っているので青年部の首脳と面談することも求めてきた。 実際、5月9日付の『聖教新聞』では、私が海外旅行に出かけたことを激しく非難し、森井昌義関西青年部長の発言として「我々は『口先だけ』なら絶対に許さない。本当に詫びる気持ちがあるなら、行動と結果で示してもらいたい、と重ねて言っておく」とあった。その頃から学会の会合では、私への個人攻撃が始まっていた。 5月14日の夜六時過ぎ、妻とともに成田空港に到着したところ、そこには10人くらいの若い男性が待ち受けており、さらに電車の乗り場までついてきた。 私は自宅に戻らず、戸田記念国際会館に直行して、学会青年部との「面談」に応じた。この面談の直前に、長谷川副会長から「矢野さん、いま青年部は誰も抑えることができないんだ。激しいことを言われても怒らないでくれ」と警告されていた。 面談はさながら査問会同然の吊るし上げだったといえる。私が現役時代はほとんど顔も見たことのない、私の息子ぐらいの年格好の青年部の首脳5名に取り囲まれ、机の上には赤い付箋がつけられた『文藝春秋』の連載記事のコピーが分厚く積まれていた。 その記事の内容を一つずつ「ここはおかしいじゃないか」と逐条的に指摘して詰問し、さらに国会でそれを資料として自民党議員による学会攻撃が行なわれたことを強調してきた。つまり、私の仕掛けで学会批判が始まったのだと。 今回の私の訴状では、森井関西青年部長は二回にわたって「土下座しろ」と迫り、谷川佳樹総東京長は「人命に関わるかもしれない」「息子さんは外国で立派な活動をしている。あなたは息子がどうなってもいいのか」という趣旨のことを言った、と記載している。 (谷川氏は矢野氏の提訴を報じた『週刊新潮』5月22日号の記事に対し「矢野氏に脅迫や強要をしたことはなく、記事は虚偽」として発行元の新潮社と矢野氏を東京地裁に提訴した=編集部注) こういった背景のもと、弓谷照彦男子部長らによる、「政治評論家をやめるべきだ」「元委員長が政治評論家をするのは許せない」などといった趣旨の発言があり、他の者も血相を変えて威嚇してきた。 さらに杉山保青年部長は、「文春の件を謝る。今後は書かない。恩返しをする」といった趣旨の文書をあらかじめ用意しており、これを突きつけて署名を迫ってきた。 谷川氏は自らの発言に限定して私を告訴してきたが、これは事件を倭小化するものだと思う。私は「谷川発言」も含め青年部首脳が、私に「評論家をやめろ」などと言論妨害をした、さながら査問会であった面談の全貌がこれからの公判で公正に判定されることを求めていく。 当時私は「報道ステーション」や「ニュース23」など各テレビ局の報道番組に出演しており、毎月のように講演の依頼もあった。さらに夕刊紙『日刊ゲンダイ』に連載コラムを持っていた。 しかし畏怖する状況のもと、要求に屈して、彼らが予め用意していた文書に署名させられるとともに、政治評論家としての活動をやめることを約束させられた。 以来三年間、終始、身の危険を感じたため、沈黙を守り、一切の評論活動はしていない。 彼らは前日の私と青年部との「面談」にひきつづき、言論活動をやめたことについて「テレビは?」「コラムの連載は?」と、一つずつやめることを確認してきた。 その上で、言論活動をやめるのならば、私が議員時代に使っていた手帳などは必要ないだろうから、預かりたいと迫ってきた。言論活動をやめたことと手帳を渡すことは本来、全く無関係であり、無茶苦茶な要求だ。 手帳は全部で百冊近くあり、30年近い私の公明党書記長、委員長としての政治家活動における裏表のすべてが記されている。 さらに私が関わった創価学会の重要事件の裏事情も詳細に記されている。例えば、 ●1970年の言論妨害事件顛末。 ●学会と共産党との創共協定の形骸化工作。 ●池田名誉会長の女性問題を記事にした『月刊ペン』との裁。 ●その後の二審差し戻し」逆転判決の背景。 ●日蓮正宗の本山である大石寺との二回にわたる紛争。 ●国税庁による創価学会への税務調査の内容、その経過、とくに公私混同問題での釈明陳情。 ●竹やぶ金庫事件。 等々。国会での攻防における、各党幹部との交渉の様子なども詳しく記されている。 また、私のプライバシーに関わることも、IDナンバー等を含め、詳細に記述されている。これらの内容が開封されたり外部に流出したりすれば、私自身のみならず各方面にも多大な迷惑を与えてしまう。だから私は盗難、火災も考慮して、厳重に保管していたのだ。 中略―――――――― 元国会議員三名は「紙一枚でも残っていたら、大変なことになる」としつこく迫った。上記は、全て彼らが法廷に証拠として提出した録音データに基づいている。それらは高裁への当方の準備書面に詳細に記述されている。これを彼らが否定できる筈はない。 中略―――――――― この経緯は『週刊現代』が独自に取材を行い、2005年の7月から8月にかけて報道した。すると、元公明党議員三人は私と「週刊現代」の発行元である講談社を名誉毀損で提訴してきた。 彼らは私が情報をリークして記事を書かせたとして私も含めて訴えてきたのだが、私はリークしていない。この手帳持ち去り事件は、発生直後から公明党、創価学会内部でひそかに知れ渡っていた。私に経緯を確認してきた人もずいぶんいた。私も2005年11月、手帳返還を求めて提訴した。 元公明党議員三名は裁判の際、ICレコーダーで隠し録りした音声データを持ち出し、そのデータに基づいて、友好的な雰囲気の中で私が自発的に手帳を渡したと主張している。 常識的に考えても、このような重要な資料を私が自発的に渡すはずがない。彼らが証拠として出してきた音声データについて、彼らに都合の悪い過激な脅しの発言が削除されていることは、当方が依頼した音声鑑定の専門機関によっても「削除されている可能性がある」と詳細に分析されている。 重ねて強調したいのは、彼らが証拠として提出した音声データの内容によると、削除されているとはいえ、残っている会話からも私に対する数々の脅迫は明々白々だということだ。私は、従わなければ何をされるか分からない、という状況下で手帳などを持ち去られたのだ。
とりわけ、竹入義勝氏(元公明党委員長)、山崎正友氏(元創価学会顧問弁護士)、日顕師(日蓮正宗前管長)、藤原行正氏(元公明党都議会議員)
への攻撃はすさまじく、『聖教新聞』などで連載記事、特集記事を組んでは批判を継続し、およそ宗教団体、宗教人の発言とは思えないような口汚い誹誇中傷を掲載していた。
私は三年前、元公明党議員三人が私の自宅を訪れて手帳引渡しを要求したとき、過去においても、私が生命に及ぶ危険を覚え、畏怖するに足る背景があったことを証するため、不本意ながらこの事実をあえて法廷でも開示した。
班編成で交代しながら連日だ。彼らは地下鉄のホームで私の真後ろに立ったり、車で十字路に突っ込んできて急ブレーキを踏むなど、身の危険を感じることがしばしばあった。これについては尾行の実態を示すビデオがたくさん手許にある。今、法的措置を検討しているところだ。
中略―――――――――― この三年間、友人やマスコミ関係の人々から、さまざまな問いかけを受けたが、私は沈黙を守ってきた。私が説明すれば、学会や公明党に迷惑がかかるし、さらに争いが泥沼になると心配したからだ。
すると当時の自民党幹事長の安倍晋太郎氏が、ついでに国会の周辺も規制しようとしていたので、私は「政党本部周辺もやってくれないか」と持ちかけ、すんなり受け入れられた。
創価学会は現在、池田名誉会長もご高齢となり、ご長寿を祈っているが、世代交代が進みつつある。私のような、昔のことを知る世代が邪魔になってきたのかもしれない。
民法662条にも「当事者が寄託物の返還の時期を定めたときであっても、寄託者は、いつでもその返還を請求できる」と明定されているではないか。
そのときには公平を期すために、国会の場で衆目のもとで、私だけでなく学会側からもトップの方や関係者の方々に、私への反論のために是非、出席してもらいたいと願っている。それが創価学会の社会的責任というものだろう。 http://www.toride.org/take/taka1.htm 参考HP
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HPを更新するたびに 加害者側が騒ぎ出し、ランキングサイトを操作しているようです
全部 証拠は撮ってありますよ
1.政教分離とは何と何を分離することか |